街頭紙芝居・菅原春秋堂

紙芝居について・あれこれ考えてみます。

追悼ー水木しげる先生

水木しげる先生がお亡くなりになりました。・・・黙祷・・・

 

 

紙芝居屋にとって水木しげるという人は特別な人です。


紙芝居がマンガ文化に与えた影響は小さくありません。


1947年12月に、山川惣治・作画の「少年王者」が集英社から絵物語単行本化され大ヒットしました。また1949年に創刊された「おもしろブック」は現在の「週刊少年ジャンプ」の原点とも言えるでしょう。

 

多くの人気雑誌の出発点が、紙芝居だったようです。

 

紙芝居出身の人気漫画家も数多くいます。
白土三平氏、小島剛夕氏、そして関西出身の水木しげる氏です。

 

代表作の「ゲゲゲの鬼太郎」もそのルーツは紙芝居だそうです。

 

水木さんが紙芝居絵かきになられたのは昭和26年に戦地から戻って、神戸でアパート経営をされていた頃です。

 

その頃紙芝居の「貸し元」という絵を扱う元締めがたくさんありました。その中の1社の「林画劇社」という貸し元に連れて行かれたそうです。そこで「売人」という紙芝居実演者の鈴木勝丸さんという方に採用されました。

 

その後、勝丸さんが独立して阪神画劇社を設立されて、貸し元になりました。
ここが水木しげるさんのホームグランドになったそうです。このペンネームも勝丸さんがつけたそうです。


本名の「武良 茂」という本名では難しすぎるので、当時アパートが水木通りにあって、「水木荘」という名前だったので「水木しげる」になったそうです。

本人は本名が良かったようですが、、、

 

紙芝居絵かきの仕事は分業制で、ストーリーを考える人、絵を描く人、色を塗る人、がいました。10枚が1組で、1巻。


水木さんは最初は色塗りからスタートして、「黄金バット」などで有名な加太こうじさんの色塗りを手伝われてたようです。

 

ゲゲゲの鬼太郎」の誕生は戦前の紙芝居に「ハカバキタロー」というのを加太さんや勝丸さんから教えられたことがきっかけのようです。


昭和29年頃に「墓場の鬼太郎」という紙芝居を作ったら、子供達に受けたようです。

当時水木さんは、ストーリーも絵も描く希有な紙芝居絵かきだったのでずいぶんと重宝されたようです。

 

この頃から妖怪ものをたくさん書かれています。「猫娘」や、戦記物、時代劇、西部劇など。東宝の「ゴジラ」がヒットした時には、「巨人ゴジラ」という紙芝居も書かれたようです。

 

 

そしてテレビの登場で、紙芝居が下火になり、上京され、貸本漫画の世界に入られます。その後の活躍はご存知の通りです。

(大阪人2002年9月号、インタビュー「ぼくが紙芝居の絵描きだった頃」より抜粋)

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水木さんはこのインタビューで紙芝居はテレビに勝てないとおっしゃっていますが、どうでしょうか?


テレビは絵が動くから、、

紙芝居はノスタルジーでしかないとも言われていますが、

 

現代は、テレビどころかファミコンコンピューターゲーム、youyubeなどをスマホで見ている子供たちですが、

 

実際の紙芝居を見るときのワクワクした顔や笑顔を見ていると、全く新しいものとして感じているように思えます。

 

これからももっと、もっと、イマドキの子供達に紙芝居を楽しんでもらいたいと思います。